色々なガイドブックに京都のあらゆる情報があふれ、シーズンになると雑誌やテレビ、に紹介された店先は、ガイドブック片手の人の群れで賑っています。でもねぇ・・。
さて、100人の人全員が「おいしい」と思う店はあるのでしょうか?100人共、同じ味を好きでしょうか?多くの人が、情報に振りまわされ、美味しくなくても、テレビで「美味しい」とレポーターが絶叫していたから、自分の周囲、友人に合わせて無理においしんぼ万歳してませんか?
京都においしい物は沢山あります。でもそれは日本全国、いや世界中何処へ行っても同じ事、
特別京都には美味しいものがある、とは限りません。
他府県の人に云わせると京都人は中華思想の塊とか・・。
現代は情報だけが一人歩きをして行きます。ガイドブックなんかに頼らず道を歩いている地元の人に聞いてご覧なさい。必ず地元の人が行く手軽で美味しい店を教えてくれます。多分、そこはガイドブックには載っていないでしょう。
京都の料理は全て薄味でしょうか?いえ、それは全くの誤解です。懐石料理か、茶懐石なのか、会席で食べる料理なのか、カウンターの一品料理なのか、松華堂弁当なのか、はたまた仕出し料理なのか、店によっても地域によっても大いに異なります。
殆どの場合、お茶会で戴く茶懐石の味と他の料理の味ををごっちゃにして、京都の料理は家庭で食べているのもやはり薄味、と勝手に決めつけています。第一、一日中しっかり働いた商家の主人なら、食事が薄味だったら身体が受け付けないでしょうに。
遊んでいる方は別ですよ。
一般に京都では、家庭料理でも何百年と続いた老舗の料理でも、しっかりとした味が付いています。どちらかと言えば濃いといわれる関東の味とそんなには変らないはずだと思います。もちろん薄口、濃い口醤油を上手く使い分けてはいますから素材の見た目、色彩は生きていますがね。
マスコミで有名になったような、自称何百年、何代目女将などと言う店は別だとしても地元の人間はそのような店には、まず行きません。
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新しい店が京都でもどんどん出来ています。独立して本家の味を受継ぎながら自分の新しい味をしっかり創っていきますから、其の味に惚れたお客さんが付きます。きちんとした店は、10年20年経ってるから判らないだろうから箔をつけようと、自から創業何百年などとは決して言いません。 |
開店して数ヶ月の店でも大変素晴らしい料理で、食事が出来る店は沢山あります。又それは何も和食だけにとは限ら無いのです。
実際にあった話ですが、名前は知る人ぞ知る300年以上続いている店。30年ぶりの同窓会に皆の希望もあって、「京都の料亭で」となり、事情がわからず知り合いに、其の店を紹介してもらいました。
料金を尋ねたら予算ではとても届かない。みんなの顔が浮かぶし、店の主人にこれだけしか予算がないので、料理を減らすなり落とすなりして何とかお願いできませんか?と言った所、主人は暫く考えて後、「宜しゅう御座います。其のお値段でさしてもらいます」とにっこり。
それで恐る恐る、大分料理内容が落ちますか?と聞いた所、主人は破顔一笑、「いや、料理は絶対に落としません。そんな事をすれば店が続いて行きません。私の顔もつぶれます。暖簾に傷がつくような事はできしまへん。」ときっぱり。当日の料理、仲居さんの立ち居振舞い、素晴らしかったと感激していました。これが本來の京都の老舗です。
芸能人だけにちやほや顔を向ける、自称老舗とははっきり異なるでしょう。ですからガイドに頼る事をせずに、それは目安として、地元の人に聞いたり紹介してもらうのが一番です。
家庭で普段食べられている物は,基本的には日本中の他の所とそんなに変りません。只云える事は約束事が多くて生活に一定のリズムがある事、晴れの日とそうでない日(ハレとケ)の区別がはっきりしている事。商家、職人、茶事関係、勤め人、などでは食べるもの、しきたり、言葉等に相当な開きがある事などです。
例えば、大阪の船場汁(塩さばのアラと大根の澄まし汁)は京都の商家でも昔からポピュラーな料理ですし、関西人が食べないといわれる納豆も盛んに食べられていました。
(知り合いの学者によるとちゃんと文献で残っているそうです。)
もちろん、京都人が納豆と言うと先ず大徳寺納豆や一休寺納豆、甘納豆の類を思い浮かべます。
本来京都の古い家では家庭料理に砂糖を殆ど使いません。
例外はすき焼きの時だけです。
牛肉は昔から京都人はふんだんに食べます。今でも牛肉の消費量は全国でトップでしょう。味付けは素材の味を生かす、みりんを、酒どころゆえたっぷり使います。代々住んでいる根っからの京都人は、例外はあるとしても、多分そうでしょう。 |
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海が遠いから新鮮な魚が手に入らなかった?これも嘘。普段の生活で始末屋の京都人が、保存の効く食材を工夫してよく使っていた為、誤解されています。
昔から若狭や明石から専門の担ぎやさんたちが2、3時間で新鮮な魚を運んできていました。私事ですが家のばあさんは慶応3年生れでしたが、新鮮な魚が大好きでした。
でもねぇ、京都人が一生のうちで食べる魚は、研きニシンと棒ダラ、ぐじと塩さばだけだと言う悪口もあります。 |
そうどすか、へえおおきに等は花街の言葉とも云われます。私の家庭では、使うとみっともないと叱られました。東京でも一時、女性言葉で「何々しても良くってよ」など盛んに使われたのも元は廓言葉です。本来の名古屋山手言葉も喋れる人は昭和20年代末でいなくなり、大阪の代表的な、ゆったりとして、耳に心地よい船場の言葉も同じです。
言葉も食べ物も時代と共に変化して行きます。「がさつ」と「下品」が大手を振ってまかり通ります。
それにしても洗練され、研ぎ澄まされた文化は、残して行かねばならない部分が沢山あります。
一般的に京都の商家では朝は、ぶぶ漬け(茶漬け)で昼が温かいご飯と言う所も多く、夜は昼の残りか簡単なおかず(おまわり、おぞうよ等と言います。おばんざいという言葉は筆者の知り合いの間では、この言葉が言い出された頃、代々京都の中心に住んでいる家のお年寄達にも聞きましたが、だれも知りませんでした。)が多かったようで、手の空いた人間から食事を順次していきますから、一家団欒などは大正中期以降のサラリーマン家庭での話です。私の子供時代でも、まだ各自のお膳がありました。
今でも商売をしている家は大体、ばらばらが多いでしょう。かといって子供がぐれた等は聞いた事も見た事もありません。皆、親の背中を見て育っています。 |
京都の家へ行くと、お茶漬けでもといわれ其のまま有難うと言って待ってると、「アホかと後で言われる」は、うそで、逆に、訪問した人が食事時になる際迄には、辞すのが礼儀です。それを互いに約束事の会話として言うだけの事です。
会話の末葉だけを取り上げ、言葉尻だけで捉えあれこれ云うのは朴念仁、野暮の骨頂です。試しにごく普通の一般家庭で、「食事に一度いらっしゃい」と言われたら素直に訪問したら宜しい。きっと歓待してくれます。 |
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ああ、でもね、通リ偶然会ったで知り合いとの会話の最後に「1度お遊びに・・」は単なるあいさつですよ。その辺のニュアンスがわからない朴念仁が増えました。
家を訪問すると、例え其の家の主が一流の料理人であっても、まず家庭料理は出ません。昔から京都ではマナーとして、訪問客を家で歓待する時は外から料理を取ります。
茶懐石専門の仕出しは別にして、仕出し屋が発達して来たのは、其の一環です。
いくら親しい間柄でも、人によっては好みの違う味のものや、普段自分の家で食べている質素な物を、家庭料理と称して客に無理に食べさせるのは、それこそ失礼な話です。
食べるほうは、不味くても美味しい振りをしなくてはならないわけです。
プロの作る料理ならば安心して客に出せるし、主人は奥さんに手間と労力を掛けない為にも、仕出し料理で、夫婦そろって客を歓待する事が、礼儀でもあり、奥さんに対するする思い遣りでもあります。後片付けの労苦を掛ける事もないし、その上、合理的ででもあります。
無論客を迎えるためには、家の内外を掃除し、打ち水をし、花を活け、香を焚く、季節感を出すと言った基本的な事は夫婦で手分けして行います。
家庭の味をお客さんに出すのが最上だと思う方は一度再考されては如何でしょうか。
但し、諸外国では文化が違いますから、これを当てはめるのには無理があります。 |
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