アジア大陸の東に位置する日本は、古くから大陸文化の影響を強く受けてきました。 日本の伝統的な民族衣装である着物も、その例外ではありません。 着物を意味する呉服と言う名称は、中国の古い王朝名に由来します。 千年以上にわたり日本の都であった京都では諸外国の影響を受けつつも、日本独自の服飾文化を成熟させました。 この京都の優れた技術や美意識により育まれた着物は、この街のブランドイメージを込めて京呉服と呼ばれています。
千年以上も都の置かれた京都で育まれた京呉服は、宮中での風習からも大きな影響を受けています。 その一例が衣更えです。 生地の織り方や素材、仕立ての方法に工夫をした着物を、季節に合わせて決められた日に一斉に取り替えます。 今では冷暖房も普及し、また温暖化の影響もあり、昔ほど衣更えの日を厳密に守っている人は少なくなりました。 しかし公式の場であるほど、この習慣はしっかりと残されています。
京呉服の伝統的な文様には日本の豊かな自然や季節の草花が多く使われています。 しかし、そればかりではなく中国の故事や風習が元となった文様、そしてシルクロードを経由して伝わった中近東に由来する文様も多く見られます。 それ以外にも16世紀頃の貿易船によりもたらされた西洋や東南アジアの影響を受けたと見られる文様などもあります。 遠い昔に諸外国からもたらされたこれらの文様は、長い年月の間にアレンジされ、日本の伝統に溶け込んでいます。 異文化を自分達の生活様式に適応させた形で受け入れる日本人の特質が京呉服の中にも見られます。
着物の特徴の1つにほとんど形に変化が無いことがあります。 これは貴重品であった絹を無駄なく使うため、平面裁断で直線裁ちを基本とした仕立てをしているからです。 着る人の年齢には主に色合いやデザインに変化を付けることで対応しています。 また大まかに分類すれば、染の着物(白い生地を織って後から文様を描いたもの)はフォーマル向き、織りの着物(先に染色した糸で織ったもの)はカジュアル向きとされています。
京呉服は友禅染め、京鹿の子絞り、京型紙、西陣織などに代表される高度な伝統技術によって生み出されます。 複雑な工程ごとに分業化された熟練の職人達の手によって、繊細な絹が京呉服へと生まれ変わります。 京都市内にはこれらの伝統技法を見学することが出来る施設もあちらこちらにあります。
日本での木櫛(つげ櫛)の歴史は古く、約6000年前の遺跡でも発掘されています。 奈良時代になると、中国(唐)からのこぎりを作る技術が伝わり、現在の櫛とほとんど同じ型の櫛が作られるようになりました。 直毛の髪の毛の人種が多い東アジアでは、横櫛(三日月型)が広まりますが、日本では江戸時代になって日本髪が発展をとげ、日本独自の縦櫛(フォーク型など)が多種作られました。 つげ櫛は現在も老若男女を問わず、広く愛用されています。
木櫛の材料には黄楊(ツゲ)、梅、桜、椿、黒檀、柞(イス)などがあるが、その中でも「さつまつげ」という鹿児島県指宿で育てられる黄楊が最高級と言われています。 主には印材に用いられますが、適度の堅さと粘りを併せ持った緻密な木材です。 樹齢35年以上の薩摩黄楊材を製材後に燻蒸(スモーク)し、約10年間にわたり乾燥させ安定させた素材を使用します。 木材は製材後、すぐに加工すると水分などが残り、安定していないので、製品に反りや歪みなどが出て駄目になってしまいます。 長期間、乾燥させた材料の木目を厳選し、1枚ずつ手作業で歯挽き、歯摺りなど約8工程を経た後、櫛が出来上がります。
つげ櫛は、使えば使う程、髪との摩擦で櫛の歯の表面が滑らかになり、櫛通りが良くなっていきます。 髪に艶と潤いを与え、静電気も起きにくく髪を傷めません。 また櫛の歯が頭皮に刺激を与え、血液循環が良くなり、育毛効果やマッサージ効果もあると言われています。 椿油を櫛の表面に付けながら5年、10年と使いこんでいくと、黄色い木肌がだんだんと琥珀色の深みのある色に変わっていくのも、味わい深いさつまつげ材の特徴です。
京都は土地柄、舞妓や芸妓の日本髪を結う美容師も多いため、日本髪用の櫛の需要が特に多い地域です。 歌舞伎、能狂言、時代劇などのかつらを結髪する櫛、西陣織の手織りに使う織物用などの特殊な櫛も作られています。
櫛を選ぶポイントは、昔ながらの無地の三日月型のオーソドックスなものが実用的でお薦めです。 櫛の歯の間隔は細かいものが見た目には美しいです。 髪がストレートのショートヘアの場合、細かい歯の間隔がお薦めですが、髪が長くパーマのかかっているような場合は、荒い歯の方が実用的です。 最近の若い世代には、櫛に手彫りで花の模様などの装飾を施したものや、櫛に蒔絵をあしらったものなどが人気があります。
京都は270年間に渡り、陶器と磁器を同等に製造し、常に日本の陶芸を牽引してました。 伝統的造形意匠の窯から、先端的独創的な造形作家まで、多数の造形者が競い合う街です。 総てに確かな共通点は、独創性・洗練・華麗・優雅・気品・迫力などが沈潜している点です。 世界でも稀有な「陶器と磁器の共存と発展」により、食器から室内外装飾品・オブジェまで、生活を芸術的に楽しく彩る工芸文化として愛されています。 この豊かな多様性と魅力の秘密は日本陶芸史の一端を見れば自明です。
京都の陶器・磁器は、世界的視野で観ても極めて創造性・多様性・美術性に優れる事は確かです。 それらは日常生活に密着して、美しい生活を築いています。 この理由は、世界の陶芸史と日本の美術史を照らせば理解されます。 世界最古の土器が発見された所は、世界4大文明発祥地(中国・エジプト・インダス川流域・メソポタミア)ではなく、日本です。
B.C.約1万8百年以後の縄文式土器時代の火炎土器は、現代世界の人間が失ってしまった驚異的な迫力と創造的な表現力で我々を圧倒します。 続く弥生式土器は、優れた平衡感覚と繊細な装飾性が美しく、日本人の先祖は、先の縄文式土器と併せて両極の特性を獲得していたと言えます。 この頃、中国初め世界では銅器文明が興り、土器は廃れていきます。 日本では逆に、窯・ろくろや釉薬に改革が進み、6古窯に続き、京都・唐津・萩など全国各地で窯が盛んになりました。
室町時代、侘び寂びの茶の湯が大きな影響を持つと同時に、京に中国の青磁が入り、桃山期に陶器は絢爛な美術・工芸から学び美を追求し、桃山陶の織部志野はオブジェでした。 1616年、有田で初めて磁器が焼成され、染付け・赤絵磁器・鍋島へ急速に発達しました。 1651年、京焼に磁器が加わり、既に全国を遥かに勝る硬質陶質で美術的に佳い陶器の窯が京の東山山麓・中心部などで盛んとなりました。 17世紀後半、野々村仁清と尾形乾山が現れ、卓抜な創造力・文学性・絵画性で諸窯に影響を与えました。 磁器の窯が競い始め、頴川・木米など鬼才が出現、明治に入り東山・保全ら多士済々が競い合いました。 大正昭和には波山・弥一・魯山人・卯一、民芸改革に寛次郎、先端的オブジェに走泥社の作家達など、数多の俊英が豊かな新分野を開拓し止まりませんでした。
京焼・清水焼の多彩で豊かな魅力の根源は、13000年来の土器・陶器の発達と、360年間の磁器の研鑽の両方の土台に、平安時代以来1000年間榮え続け日本の美術・絵画・工芸・染色織物・建築・庭園などの、華麗・巧緻・先端技術・独創性の最高極致の集積が存在します。 食器・花器・茶道具から先端的空間オブジェまで、生活を幅広く美しく楽しく支えて、人々を惹きつける理由も此処にあるのです。
日々手を合わすお仏壇ですが、我が国最古の歴史書である日本書紀に天武天皇が、全国の公家の家に仏殿を作り、仏像や教典を安置せよと命じた、と書いてあり、この詔勅が下された685年3月27日が、仏壇発祥の日とされています。 最初の頃の仏壇は石や土、木などで作られていたようで、お寺や公家の家にありましたが、庶民の家に普及したのは、江戸時代に入って寺請制度により、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家になるよう義務づけられてからのようです。
元々仏教は、悟りを得た状態、いわゆる「成仏」を目指すための教えだったのですが、シルクロード、中国、朝鮮半島を経て、飛鳥時代に日本へもたらされる間に、儒教の中にある「先祖崇拝」が加味され、 さらに、鎌倉時代、禅宗により、お位牌が日本にもたらされ、江戸時代にそれが一般化した事により、お仏壇でお祀りしているのはご先祖様と考えられがちになりました。しかし本来は宗派のご本尊を各家庭へお迎えしている場所とされています。
お仏壇には大きく分けて金仏壇と唐木仏壇があります。 京都は平安時代の昔から都として文化、芸術、産業の中心地でありました。 また各宗派の大小様々な寺院があり、仏教文化、芸術、産業の中心地でもあります。 京仏壇とは、京都で製作される仏壇で部品ごとの細かい基準を満たしているもので、漆塗り金箔仕上げの金仏壇と呼ばれるものを指します。 これは平安時代以来の京都の高い工芸技術を持つ職方の分業によって作られています。 何気なく見えるような部品にも、京都人好みの、凝った細工や緻密な技法が施してあるのが特色です。 江戸時代以降職人が全国産地から京都へ修行に来て、技術習得後に地元へ戻り、その技法を伝えた事で、塗仏壇産地に大きな影響を与えてきました。 手作りであることと、各宗派本山のミニチュアのデザインを、お仏壇とするため、宗派により構造が異なり、京仏壇は大量生産ができません。 京仏壇は、京仏具と共に経済産業大臣指定の伝統的工芸品として、全国からの需要に応えています。
一方、唐木仏壇が一般に普及したのは明治以降と比較的新しく、特に関東大震災後の仏壇需要に応えるように量産されるようになりました。 金仏壇と違い、略式の構造を持つため、ある程度の大量生産が可能で、その低価格や生活スタイルの変化などで需要が増加しました。 素材として主に紫檀、黒檀などが使われるのですが、硬木のため工作が難しく塗仏壇に比べてシンプルな点が特色といえます。 最近では住宅事情からフローリングの部屋にマッチするような家具調デザインのものや、タンスやサイドボードの上に置いてお祀りできるような小型のものの需要が増えています。
穴を開けた小さな珠を一定の数だけ糸や紐に通して輪を作り、お念仏や読経の時に手にかけて用いるもので、仏教徒必須の法具です。 古代インドのバラモン教で用いられていたものを仏教が取り入れたとされています。 また、アレクサンダー大王東征の時に西欧にもたらされ、キリスト教のロザリオのアイデアになったとも言われているようです。
基本の玉数は108ヶであり、「108の煩悩を断滅する」、「108尊の功徳を表す」など諸説があるようです。 正式な数珠の形は、玉の配置や房の括り方など、それぞれの宗派により異なります。 また108という数にこだわらない宗派もあり様々です。 手が通せるだけの長さを輪にして房を付けた略式のものも広く使われています。 6世紀中頃、日本に仏教が伝えられたときに数珠も一緒に伝来したと言われています。 当初は108ヶの玉と一回り大きな親玉1ヶを紐で結んだものだったようです。
108というのは人間の持つ煩悩の数を表すと言われています。 煩悩というのは仏教の教義の一つで、心や体を乱し悩ませるような心の動きのことを指し、悟りの境地に至るのを妨げます。 その煩悩を祓うのが数珠の役割と言われています。 日々お仏壇に手を合わせるのと同等の意味を持つわけです。 ただし宗派によっては数珠の役割をこのように考えない場合もあります。 数珠の素材として水晶や菩提樹の実などが有名ですが、材質で数珠の効能の優劣をつけることは、まさに煩悩の為すがままと言わざるをえないでしょう。 ある程度の大きさの穴が開けられて、紐を通せる堅さや丈夫さがあるものならば、数珠として使うことができます。
数珠の基本になる108の玉を主玉と呼びます。 その主玉に比して一回り、または宗派により二回りほど大きめの玉を2ヶ、親玉と呼び、主玉に比して一回り小振りな玉を4ヶ、四天または四菩薩と呼びます。 親玉から主玉を33ヶ並べて四天を1ヶ、そこから主玉14ヶ並べて四天を1ヶ、そこから主玉7ヶ並べて親玉を配置し、主玉7ヶ並べて四天を1ヶ、そこから主玉を14ヶ並べて四天を1ヶ、そこから主玉を33ヶ並べて最初の親玉へ戻り1周になります。 それらを紐でつないで括ります。 その際、親玉に房になる部品を括り付けます。 多くの宗派の数珠はこの1周の部分は同じで、ぶら下げる房の部品の配置でそれぞれの宗派の違いを表します。
お香は仏教伝来とともに日本に伝わりました。 もともとインドに端を発し、中国で医薬として発展しましたが、日本では香りを聞いて鑑賞するものとして利用するようになり、香道として発展しました。 嗜みや癒しとして芸道が発達し、茶道や華道と同様にその芸術性の高さは日本独特のものと言えるでしょう。
お香の利用は、仏教と共に日本に伝わったとされています。 その香りはお供えする人の身も心も清浄にし、仏前を清め、邪気を払うとともに、それがすみずみまで行きわたるところから、すべての人々に差別なくゆきわたる仏の慈悲をたたえたものといわれています。 また、お供えと関係なくお香を楽しむことを「空炷き(そらだき)」と言うが、香木の香りが気分を安らげる鎮静作用があるところから「アロマテラピー(芳香療法)」「アロマコロジー(芳香心理学)」など、心身の健康に及ぼす影響を科学的に利用する方法もさかんに行われています。 沈香の香りでα波が増えるという実験結果も紹介されています。
お香と言っても香木そのものを使う刻、割、笹手、爪、数種類の香木をブレンドして作る線香、渦巻き香、円錐香など、様々な形状のものがあります。 主にお供えとして使う事を目的とした実用線香、来客の際のお部屋の香りの演出のための座敷香など、用途によっても様々な種類があります。 また、茶道、華道と並んで香道という一定の作法に従って香りを聞いて(嗅ぐとは言わない)楽しむ芸道があります。 線香、円錐香、渦巻き香はそれ自身に火をつけて香りを上げるのですが、火がついて燃えている部分の熱でその下の部分が温められて、そこからいい香りが放たれています。 好みにあった香りを探すときには、直接煙を吸い込まないように、注意が必要です。
日本でのお香の歴史は「595年の4月に沈香が淡路島に漂着した」ところから始まるので4月を、また「香」の文字を「一十八日」と崩して18日と読み、合わせて4月18日が「お香の日」とされています。
あぶら取紙は、江戸時代から流行し始めました。 金箔を製造する過程で生まれた紙がそのルーツです。 金箔を製造する際に、金を引き延ばすため18cm×18cmの和紙の間に、金のかけらを挟み、全体に打圧して伸ばし、金箔を造ります。 その和紙を再利用したものが、あぶら取紙です。
京都では、映画撮影所で俳優のメイクアップを長持ちさせるプロユースのアイテムとして、俳優たちに愛用されていました。 それが、祇園の芸妓・舞妓に広がり、今日では一般的な商品となりました。 あぶら取紙は、別名「ふろや紙」又は「貴紙」とか「鳥金紙」と称して江戸時代から流行し始め、「能く面の脂を取り、しかも浴したるごとく、故にふろや紙と言う」と古書に記されております。
金箔を製造する過程で生まれた紙がそのルーツです。 金箔を製造する際に、金を引き延ばすため18cm×18cmの和紙の間に、金のかけらを挟み、全体に打圧して伸ばし、金箔を造ります。 その和紙を再利用したものが、あぶら取紙です。 江戸時代から今日に至るまで、金箔の製造は、そのほとんどが、石川県金沢市周辺で行われてきました。
あぶら取紙が京都で広まったのは、映画撮影所からだと言われています。 京都は、映画製作が始まった当初から映画撮影の中心地として繁栄しました。 当初、スタジオでの撮影時には、照明の光量の加減で、大変暑くなり、メイクアップを施した顔に脂が浮きました。 あぶら取紙は、メイクアップを長持ちさせる為、必要欠くべからざるものとして愛用され、1枚の大きさも現在の4倍ほどの大きさでした。 プロユースのアイテムだったのです。 それが、祇園の芸妓・舞妓に広がり、女性の支持を得ました。 その後、携帯に便利な大きさとして現在のサイズである9cm×9cmが主流となり、今日では一般的な商品となりました。
あぶら取紙が一般に使われ出した背景には、清潔感を重んじる現代人の生活習慣があります。 最も一般的な利用方法は、女性の化粧直しです。 女性の顔に、ファンデーションと呼ばれる色のベールを施すことにより、肌が美しく見えます。 ちょうど、素足にストッキングを履く感覚に似ています。 しかし、時間の経過と共に肌の表面には皮脂が出てきます。 その余分な皮脂だけを取り去るのが、あぶら取紙の役割です。 肌にそっと紙をあてると、皮脂が紙に浸み込みます。 和紙を打圧したあぶら取紙は、その役割に最適です。 また、あぶら取紙をこまめに使う事により、ファンデーションを伸ばすスポンジに皮脂がつき汚れる事も防げます。 最近では、脂ぎった顔を嫌う若い男性も、積極的に愛用するようになりました。
春夏秋冬・花鳥風月などの季節の風物・風景等を、その題に万葉集・源氏物語等の物語や歌集に表現された言葉を用いて、様々な材料で色形を変え、手わざによって形造ります。 主たる原材料は丹波大納言、北海小豆、備中白小豆などの小豆類や米粉です。 うるち米・餅米を粉にしたもので、又その細かさによって名称も変わり、使い方も変わっていきます。 それから小麦粉、葛粉、砂糖です。 砂糖は普通の白砂糖、粉糖、グラニュー糖、黒砂糖など目的によって使い分けられます。
特殊なものとして日本古来の砂糖“和三盆糖”もあります。 これらのものを合せ、生地を作り、又、餡を作ります。 餡を生地によって包み上げ後はその季節の色々な物に表現していきます。 生地は材料の配合によって変えられますが、基本、包み込む餡は、つぶ餡・こし餡であれ、小豆餡が原則となります。
季節の物を表現するとして、梅花、桜、青楓、紅葉を同じ素材で作ることがありますが、桜を例に取りますと、花の形を全て表現する菓子、一枚の花弁にて形とする場合、黒あるいは白無地の生地に桃色をボカス事などによって桜花を表現することができます。 ひいて言えば具象化も抽象化も自在であるということです。 そのイメージを固定化する力を発揮するのが菓名です。 同じ生地をもって色々な形を形作り季節を愛でる事は日本人の文化となっています。 海外の方はたいてい、色・形が変わっているのに、同じ味がするのは何故だという疑問をもたれます。
旅館とは日本古来より旅人を宿泊させる施設の呼び名です。
基本的に和式で、日本独特の宿泊サービス施設です。 今では懐かしい日本独特の建築・生活様式で風情あふれる滞在を望む日本人はもちろん、外国人にも人気があります。
主客室は畳の和室です。 1部屋に2人から5名程度が泊まれる客室が一般的です。 旅館では女将という女性が経営を仕切り、接客の仲居がお客様に手厚いおもてなしをする旅館もあります。 和装や食事、和室での滞在など、洋風ホテルには無い地域の伝統文化を感じられる点で、最近は外国人にも人気です。 ほとんどの場合、共同浴室を有し、客室風呂が無い施設もあります。 また、温泉の風呂を特徴とする施設も数多くあります。
食事は地方色豊な食材と調理方法で提供されており、多くは魚介類ですが、山間部の旅館は肉料理なども提供されます。 通常は部屋食ですが、最近では泊食分離で食事場所が別になっている施設も多くなっています。 また、グループ客用の和室の宴会場を持っている施設もあります。 客室内にはそれぞれ浴衣が用意されており、館内だけでなく温泉街を浴衣で散策することも一般的です。 宿泊料金に夕食・朝食の食事代が含まれており、一泊二食付きの設定となっているのが通常です。
八ッ橋は、江戸時代に生まれた京都のお菓子です。
八橋検校は江戸時代前期、箏曲を極め、六段の調べに代表される多くの名曲を残すなど、 近世箏曲の開祖と称えられています。 歿後、黒谷の常光院(八はしでら)に葬られましたが、墓参に訪れる人の絶えることがなく、そのため検校歿後四年後の元禄二年(1689年)、琴に似せた干菓子を「八ッ橋」と名付け、黒谷参道の聖護院の地にて売り出しました。 それから320年余り、 八ッ橋は悠久の時を超えて現代にも愛され続けています。
八ッ橋は、米粉と砂糖を合わせたものに、にっきで香り付けをしたものです。 現在、一般的に思い描かれる八ッ橋と言えば、生八ッ橋につぶあんを包んだ生菓子です。 昭和三十五年(1960年)、祇園祭の前日祇園一力亭にて毎年開かれている表千家のお茶会で誕生しました。 こしあんを生八ッ橋で包んだお菓子に、即中斎宗匠より「神酒餅(みきもち)」との名前を頂戴し、もてなしたところ、お客様にも好評でした。 この「神酒餅」が原点となり、つぶあんを生八ッ橋で包んだものが商品化されました。
現在のつぶあん入り生八ッ橋は、季節のあんや、黒胡麻あんなどが入ったものがあり、多岐に渡ります。 京都観光のお土産としても、代表的なお菓子になっています。