メールマガジン購読会員様だけにお送りする「京の隠れ名所」シリーズ第参拾七弾





岬神社
(土佐稲荷)

京都市のドマンナカ、四条河原町を少し北へ入ったところ。
厳密には蛸薬師の河原町と木屋町の間に、岬神社(別名:土佐稲荷)はあります。

室町幕府完成の10年後、貞和4年(1348)に鴨川西岸、岬のように出っ張った所に祠を建てて祀られたのが始まりです。

江戸初期になると、少し西に位置する備前島町に建てられた土佐藩京屋敷に遷座されたとき、倉稲魂命(クライナタマノミコト)・石栄神(セキエイカミ)の2座を祭神としました。

土佐藩邸の庭に祀られることになったワケで、それ以来「土佐稲荷」と呼ばれるようになりました。


当屋敷内の人々はもちろん、一週間ほど土佐藩邸で謹慎させられていた幕末の志士・坂本龍馬等もこの神社をあがめ、近隣周辺の人々からも手厚く尊崇されたので、町衆にも屋敷内の通り抜け参詣を許していた、と伝えられています。

河原町蛸薬師を南へ、現在、坂本龍馬&中岡慎太郎遭難の地と記された石碑のあるちょうど向かい側に、東へ入る路地があります。


30mほどで突き当たりになりますが、そこが土佐藩邸の西出入口。

周辺学校との統廃合により現在は未稼働である立誠小学校を挟んで、直線上の東側には高瀬川を渡る『備前島橋』(土佐橋)が架けられています。

今は立誠小学校校庭の非常口になっておりますが、それが元藩邸の東側出入り口
両地点の間に存在したワケであります。

明治維新に、土佐藩邸が売却されるとき、一時、少々南にある下大阪町に移されました。

が、近隣の産土(ウブスナ)神として崇敬されている同神社の衰微を憂慮した備前島町の富豪が元土佐藩用人邸を買い取り、明治20年に遷座したのが現在地であります。

大正2年には先斗町・木屋町その他近隣在の信徒が募金を行って大規模な造営を行い、現在の社殿になりました。


周辺の有力町衆信徒により崇敬会が設立され、浄財により、社殿及び、明治10年より伝わる「御輿」も完全に修復し、近隣団結のシンボルとなり、火除け、厄除け、大願成就、或いは縁結びの神として地元町衆に信仰されています。

当神社宮司は「祇園さん」の名で親しまれている八坂神社宮司が兼任しています。


さて、境内左手には坂本龍馬像があります。

しかし、なぜか削り取られたような跡があり、ボコボコになっておりました。

一説では、龍馬に肖らんと欲する無粋者による狼藉とか・・・

近所の龍馬好きのオッサン氏曰く
「ほんなことしたら 龍馬にあやかって早死にするだけとちゃうん?と思うけど・・・」


地図

京都にも幕末の政変に関わる所がゴロゴロあることに今更乍ら驚いております。