メールマガジン購読会員様だけにお送りする「京の隠れ名所」シリーズ第参拾五弾





物集女・車塚古墳
(もずめ・くるまづかこふん)

『前方後円墳』なる古墳の形態は、初期の天皇陵に代表される大型で周濠に守られたもの・・・大阪の仁徳天皇陵などが思い浮かびますが、ここにも小型ながら存在します。
車塚緑地として「京都府緑と文化の基金助成金」ならびに「地域総合整備債」平成8年に整備された公園に、京都府指定史跡・車塚古墳はあります。

今を去ること約200年前、江戸幕府が歴代天皇の御陵を定めるため調査を行ったときは、淳和天皇の陵の候補でありました。
しかし、文久年間(1860年代)の調査で、淳和天皇陵では無かったことが判明しましたが、地元では「淳和天皇の霊柩車を埋めた塚」と言い伝えられてきました。これはあくまでも「言い伝え」であります。

昭和になると、各部に崩壊が見られるようになり、保存のための修復を兼ねて、昭和58年には大々的な発掘調査が行われました。
考古学も発達してきた昭和時代、それまで謎とされていたさまざまなことが判ってきたのであります。

風化、崩壊した部分を復元した場合、長さ43〜48m、高さ7〜9m程度。
30度ほどの勾配をもつ側面が長期間持ちこたえたのは、まことに入念に造築された結果であること。
北部と西部には約6mの幅をもつ周濠があったこと。
石室内部の構造
埴輪をはじめとする多くの副葬品・・・・・

玄室には少なくとも3〜4回の埋葬跡が発見されておりますが、最初のものは、二上山から切り出した凝灰岩の板材を組み合わせて作る家形石棺を用いました。
石棺の側面や蓋石には縄掛突起と呼ばれる突起があり、内面にはベンガラが塗布されています。
玄室の前壁外側には長持形石棺の一部(「龍山石」製、古墳時代中期)が転用材として使われていたことから、おおよその造築時期が判ってきました。

やはり近年の発掘技術はスゴかった。


建築という視点から特筆すべきは、排水溝の構造かと思われます。
門にあたる前庭部は南側、廊下にあたる羨道部、石棺が安置された玄室を仕切る梱(シキミ)石を経て中央部へ通じておりますが、排水システムは場所によって適切に施工され、千数百年間玄室を大雨から守っていたのであります。



平安遷都以前、短期間ではありますが長岡京がありました。
車塚古墳がある向日市は長岡京市と京都市の間に位置し、古くは乙訓(オトクニ)と呼ばれていたエリアでありました。
現在も、もっと南にある乙訓郡としてその名を残しています。
副葬品に、特異な金銅製冠や三輪玉などが出土し、また、墳丘の形や埴輪の特徴などを併せると、埋葬されたこの地方の王が淀川沿岸〜大阪湾岸、特に紀伊周辺と密接な関係があったようです。
一方、滋賀県や福井県のものとも強い共通性がみられます。
6世紀後半、大和朝廷の混乱の中、この地方に北陸から出た継体(ケイタイ)天皇の「弟国宮」が作られたことなどから、埋葬者は継体擁立勢力と従属関係をもち、これらの政変と無縁ではなかったようであります。


地図

今や住宅地の真ん中。

小さいながらも立体的な造形で、まさに『こんもり』としています。

バチあたりでありますが
「カワイイ」!