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12月・忠臣蔵シリーズ

安養寺



元禄15(1702)年7月28日
大石内蔵助らによって、いわゆる「円山会議」が開かれた処として知られているここ「安養寺」は八坂神社の東、除夜の鐘の大鐘楼でおなじみ知恩院の南に位置する山上のお寺です。

ただし、円山会議が開催された「重阿弥」と称する建物は現存しません。
また、赤穂浪士に関する資料なども一切残されていません。
(四十七士だけが知る秘密会議なのでアタリマエかも)

左写真は現在公園となっている門前。
周辺には現在は料亭になっている元安養寺坊舎もあります。

さて、忠臣蔵にては少しだけ登場するのみではありますが、創建は平安期、比叡山延暦寺とほぼ同時期、伝教大師によって成されたものであります。
また、浄土宗開祖・法然上人の真葛原吉水(まくずがはらよしみず)草室(吉水草庵)旧跡でもあります。
もともと境内地から良質の霊水が湧いていたので、このあたりを吉水と称するようになりました。
この水は、青蓮院・灌頂法会に使われたり、知恩院や東大谷からも正月用仏前の初水として年々汲みにこられました。


法然上人は讃岐へ流罪になるまで、32年間この地を布教活動の本拠としていたという記録があります。

浄土真宗開祖・親鸞上人も1201年に六角堂の観世音の夢のお告げに従ってここに入門されました。

歴史的にも錚錚たるメンバーがここを訪れていたワケであります。

安養寺と称するようになるのはもっと後のことで、法然上人が流罪となった後、念仏禁止令が施行されたおり、慈鎮和尚なる僧侶が入山、運営することになりました。
それを機に「慈円山大乗院安養寺」と号するようになりました。

足利時代、至徳年間(1384〜1387)には、時宗の国阿上人が当方面を巡化され、住職の懇請により以来縁あって念仏時宗(一遍上人開宗)の寺となっています。

徳川時代に慈円山は「円山(まるやま)」と呼ばれるようになり、寺坊六ヶ寺と本坊を構えた堂々たる一山寺でした。

明治になると、江戸幕府が寺院を保護するための各種制度が破棄されるようになると寺院の運営も苦しくなり、ここ安養寺も例外では無く、「円山」の名と共に公園地に没収され、残された左阿弥は料亭に変化しました。
現在は元々6舎あった坊舎も本坊、弁天社、雨宝堂を残すのみなっています。


地図

境内の石段を上がって本堂の前からは京都市内を見下ろすカタチになります。
まさに「東山の奥座敷」の風情是有り候。