メールマガジン購読会員様だけにお送りする「京の隠れ名所」シリーズ第弐七弾

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天正10年(1582) 突然、織田信長を攻め、当時は四条西洞院にあった本能寺にて焼死させた、世に言う「本能寺の変」の張本人明智十兵衛光秀
現代に「3日天下」などと、あまり良くない意味で引き合いに出される羽目にった。 ここは光秀遭難の地なのである。
変を聞くや否や疾風のごとく岡山より舞い戻った羽柴秀吉(豊臣秀吉)と、6月13日(新暦7月2日)山崎の地で決戦。世に言われる『天王山の合戦』である。 が、夕刻には敗退し、近江の坂本城を目指し戦場から逃亡したのであった。 光秀の心中を言い表したかのような小雨が降る中、逃亡劇は馬にて山科から小栗栖へ。 竹薮に差し掛かった主従13騎の一団は縦一列になって坂本への道を急いでいた。 うっ!突然6番目に走っていた光秀のわき腹に激痛が!光秀は馬から落ち、家臣達が必至で介抱した。 が、 この辞世の句を残し、家臣・溝尾庄兵衛に介錯させ、落命したのであった。
傾斜地ゆえ、数年前に伐採され土砂崩れ防止工事が行われ、実際に光秀が絶命した地点は現存しないとされている。
しか〜し
あの藪を通ると、軍勢のおたけびが聞こえる。
竹を切る農民がケガをしたり、ふるえが止まらないようになった・・・
この竹薮には一般的な緑の竹の中に、赤い枝のものが多く生えてきたり、
『ワタ出』と呼ばれた空間は、光秀最期のとき、渾身の力を込めて竹槍を抜いた。が、その弾みに光秀の腹部から鮮血と内臓が飛び散り、恨みをたたきつけた光秀の怨念が周辺の竹を腐らせた、とか・・・ 数々の不気味な伝説が残されているのだ。
光秀らを襲った土民達は襲撃後、藪を掘り返したときにはあまりにも無惨に切り刻まれた顔面から、実際に光秀であったのか否か判らぬほどになっていたとか。
別の説で「光秀は殺されてはいない」という真っ向から対立するものもあるほどに、ナゾの多い事件である。 しかし、この地にて落命した人物が誰であったにせよ、421年前の7月2日の夜半に土にまみれた遺体が横たわっていた事は確かな事実。
明智藪 |
地図![]() ![]() そもそも夜の竹藪などは不気味なものではありますが、蝮のほうが現実的危険性が高いということを認識しました。 |