ここは大仏殿の中心部分にあたり、2000年に遺構の状態を確認するため、部分的な発掘調査が実施されました。
その結果、大仏殿の正確な位置が判明し、その規模も南北約90m東西約55m、
大仏の全高18mという東大寺大仏殿をもしのぐ壮大さであったことが改めて確認されました。
発見された遺構は地下に埋め戻して大切に保存し、小舗石や板石などで位置を地表に明示しています。
偉容を誇った大仏殿は、残念なことに寛政10年(1798)に落雷による火災で大仏もろとも焼失してしまいました。
天保年間に寄進された旧大仏木造半身像も昭和48年、火災によって焼失・・・・
いまでは大仏殿と大仏の一部であると考えられる遺物が保存されています。
大仏殿関連が銅製風鐸、銅製舌各一点、鉄製金輪4点
大仏関連が銅製蓮肉片、銅製蓮弁、鉄製光背金具各1点
全部で9点の「カケラ」が残されています。
国家安康・君臣豊楽
の文字のある著名な同寺「梵鐘」は三条釜座の鋳物師、名越(名護屋)三昌らによって慶長17年(1612)に、制作されました。
この梵鐘は昭和43年に重要文化財に指定されました。
上の写真、梵鐘本体の中程からチョット上に白く囲まれた部分を拡大すると
あの銘文が、今もシッカリと読みとれます。
徳川家康をして「この文に呪詛の言葉あり」と言わしめたアレですが・・・・・
歴史的大事件が起こることになったモトです。
大阪冬の陣&夏の陣、そして豊臣家は滅亡することになりました。
当時、「徳川vs豊臣→徳川の勝ち」で決着がついたのですが、400年経った現在でも「徳川ファンvs豊臣ファン」の論戦が火花を散らしていることがあるようです。
20年ほど前までは自由に「鐘突き」ができたと記憶しています。
筆者も当時鳴らしてみたことがありました。
突いた時から余韻にいたるまで誠に重厚感のある、しかし微妙な音質変化が大変印象に残っています。