メールマガジン購読会員様だけにお送りする「京の隠れ名所」シリーズ第弐伍弾




方広寺



東山のふもと、あの太閤・豊臣秀吉が造立した
伝教大師作・豊太閤護持の大黒尊天を祀る 方広寺 があります。

記録では、天正14年(1586)に秀吉が奈良・東大寺にならって大仏造立を決定し、文禄4年(1595)にはほぼ大仏殿が完成していたようです。
当初、全高約19mあったという木製大仏ですが、初代大仏殿の規模は現在も不明です。


慶長元年(1596)
伏見大地震のため大仏は倒壊。秀吉は
「うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」
と弓矢を打ちつけたという逸話が残っております。

慶長9年頃、放火により炎上したあと、豊臣秀頼が再興しました。

現在は本殿から東、少々離れたところに
『大仏殿跡緑地公園』としてその名を残しています。

ここは大仏殿の中心部分にあたり、2000年に遺構の状態を確認するため、部分的な発掘調査が実施されました。

その結果、大仏殿の正確な位置が判明し、その規模も南北約90m東西約55m、
大仏の全高18mという東大寺大仏殿をもしのぐ壮大さであったことが改めて確認されました。

発見された遺構は地下に埋め戻して大切に保存し、小舗石や板石などで位置を地表に明示しています。

偉容を誇った大仏殿は、残念なことに寛政10年(1798)に落雷による火災で大仏もろとも焼失してしまいました。

天保年間に寄進された旧大仏木造半身像も昭和48年、火災によって焼失・・・・



いまでは大仏殿と大仏の一部であると考えられる遺物が保存されています。
大仏殿関連が銅製風鐸、銅製舌各一点、鉄製金輪4点
大仏関連が銅製蓮肉片、銅製蓮弁、鉄製光背金具各1点
全部で9点の「カケラ」が残されています。

国家安康・君臣豊楽
の文字のある著名な同寺「梵鐘」は三条釜座の鋳物師、名越(名護屋)三昌らによって慶長17年(1612)に、制作されました。
この梵鐘は昭和43年に重要文化財に指定されました。

上の写真、梵鐘本体の中程からチョット上に白く囲まれた部分を拡大すると
あの銘文が、今もシッカリと読みとれます。

徳川家康をして「この文に呪詛の言葉あり」と言わしめたアレですが・・・・・

歴史的大事件が起こることになったモトです。
大阪冬の陣&夏の陣、そして豊臣家は滅亡することになりました。

当時、「徳川vs豊臣→徳川の勝ち」で決着がついたのですが、400年経った現在でも「徳川ファンvs豊臣ファン」の論戦が火花を散らしていることがあるようです。

20年ほど前までは自由に「鐘突き」ができたと記憶しています。
筆者も当時鳴らしてみたことがありました。
突いた時から余韻にいたるまで誠に重厚感のある、しかし微妙な音質変化が大変印象に残っています。


地図

東山のふもと、七条東山・京都国立博物館の今ではウラにあたりますが、当時はその辺りを境内とする巨大な寺院であったという記録もあります。