メールマガジン購読会員様だけにお送りする「京の隠れ名所」シリーズ第弐拾弾




山科・大石神社




徳川家康が江戸幕府を開いて約100年。

元禄時代は「武術より芸」、「刀より俳句」
などと武士道も忘れ去られようとしていた時代。

独特の「元禄文化」もこの時代に生まれたものであります。


そんな時、事件は起こりました。

大石内蔵助を筆頭とする吉良邸討ち入り事件に、忘れかけていた
武士道精神
に心打たれた人々の手によって、事件から47年後には『仮名手本忠臣蔵』として芝居の題材として完成されました。

以来、日本の12月は 『忠臣蔵』 なのです。





祭神は大石内蔵助良雄
巨大な絵馬に描かれた彼の勇士があります。



本殿右側には『大石桜』と呼ばれる樹木が植えられ、春には、これまた日本の心、桜花を咲かせます。

ここ、山科の大石神社は内蔵助が討ち入りまでの一時期住んでいた所の近く。
神社として創建されたのは、それほど古くなく、昭和10年のことでした。

左側には創立記念の石碑があります。
良く読めなかったのですが、
内容についてはここに記されています。

内蔵助率いる四十七士らの、主君に対する忠誠心、これを全うして潔く散ったという姿に、真の武士道を見出し、時代とともにその行いは神格化され、この神社が生まれたのであります。

記録によると、赤穂城明け渡しの後、元禄14年(1701)6月下旬に以前からこの付近に田地、屋敷を持っていた親類の進藤源四郎の世話によって内蔵助はこの地に移って来たのでした。


閑静で人目につきにくく、且つ交通に便利で事件の善後策を講じるのに良い土地で、ちょくちょく同志の会合を開いていました。



初めは、はやる同志をおさえ、亡主・浅野長矩の弟、大学長広をたてて主家の再興を企てましたが、翌、元禄15年夏、結局再興は許されず、吉良義央邸討入りに方針を固め、同志はバラバラに、且つ密かに江戸に集うことになりました。

内蔵助は、元禄15年5月に妻子と離縁、8月にはここをひきあげ、一旦四条寺町周辺に移り、10月には本懐を遂げんが為江戸へ向かったのでした。

毎年4月14日に春季大祭
12月14日(討ち入りの日)に義挙記念祭が行われます。

特に本年(平成14年)12月14日は討ち入りからちょうど300年に当たり
『忠臣蔵三百年記念大祭』が行われます。

不滅の 日本武士道
これからも大切に受け継いで行きたいものです。


地図

取材に行ったのは11月中旬。
紅葉が大変良い状態にもかかわらず、ヒッソリしてました。

まさに穴場!