メールマガジン購読会員様だけにお送りする「京の隠れ名所」シリーズ第九弾
まずはシンボル「大門」から
当時、島原地域の周りは堀と塀で囲まれ、門はその東辺北寄りに設けられていました。その後、享保十七年(一七三二)には西辺にも門ができました。 初代の東辺北寄りのものは明和三年(一七六六)道筋と呼ばれていた道の東端である現在地に移されました。 この門は、享保十四年(一七二九)当初、冠木門(かぶきもん)であったと考えられていますが その後塀重門(へいじゅうもん)、さらに腕木門(うでぎもん)へと変更されてきました。
嘉永七年(一八五四)八月には、この一帯が火事にみまわれ、東側は大半が類焼し、このとき門も焼失したと考えられます。
大火後、門は再建されましたが、慶応三年(一八六七)五月には再び建て替えられました。
![]() 揚屋文化の象徴「角屋(すみや)」 島原には揚屋(アゲヤ)と置屋(オキヤ)があり、揚屋は太夫・芸妓などを一切 かかえず、置屋から太夫等を呼んで宴会を催す場でありました。 (いわゆる「お茶屋」は厨房システムを持たず、料理は「仕出し屋」へ外注。また基本的に宿泊設備もないトコロ) 即ち、今風に言えば高級料亭であったので各種接待の場でもあり、又文化人達も集うサロン的存在でもあったのです。 大広間から見える臥龍松(がりょうのまつ)を題材にした美術作品も多く残されております。 絵画では、応挙・蕪村など、当時一流の画人の作品で、特に蕪村の「紅白梅図」の大作は重要文化財に指定されています。
江戸中期の島原には、俳壇が形成されており、中でも角屋6代目・7代目の当主は蕪村・太祇らを師として俳壇の中核として活躍していました。
このように角屋は江戸時代の社交遊宴文化の場であった「揚屋文化」の余香を今に伝えています。 ![]() 日本最古の置屋・「輪違屋(わちがいや)」 現在の建物は安政4年(1857)に再建されたと云われますが、その後増改築されて明治4年(1871)に、ほぼ現在の姿になりました。 構造は複雑なのですが、ざっと一階南半分の居室部分と、一階北半分と二階を占める客室部分とに分けらます。
客室は全部で十数室あり、なかでも二階の「傘の間」と「紅葉の間」が主要な座敷で、その襖や壁の斬新な意匠はすばらしきものです。これは建築物として質が高く、また古い置屋の遺構として貴重で、昭和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定されました。
一般公開はしていませんそれだけに、よりナゾの多い処であります。
いまも、
花琴太夫・春日太夫
など、数名の方々がおられるようです。
|
地図![]()
|