メールマガジン購読会員様だけにお送りする「京の隠れ名所」シリーズ第九弾


島原

の巻


閑静な住宅街にドカンとそびえる門。
江戸時代より「島原」と呼ばれるところのシンボルです。


島原とは?

豊臣秀吉が京都を再興するにあたり、花街を最初は二条柳馬場に「柳町」を置きました。
これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えました。
その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)市街地の西にあたる当時の朱雀野に移りました。
正式名称は西新屋敷でありましたが、その急な移転騒動が ときあたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて 島原と称されるようになったのです。


まずはシンボル「大門」から
当時、島原地域の周りは堀と塀で囲まれ、門はその東辺北寄りに設けられていました。
その後、享保十七年(一七三二)には西辺にも門ができました。
初代の東辺北寄りのものは明和三年(一七六六)道筋と呼ばれていた道の東端である現在地に移されました。
この門は、享保十四年(一七二九)当初、冠木門(かぶきもん)であったと考えられていますが
その後塀重門(へいじゅうもん)、さらに腕木門(うでぎもん)へと変更されてきました。

嘉永七年(一八五四)八月には、この一帯が火事にみまわれ、
東側は大半が類焼し、このとき門も焼失したと考えられます。

大火後、門は再建されましたが、慶応三年(一八六七)五月には再び建て替えられました。
これが現在の大門であります。



この大門は、本柱上の屋根のほか後方の控柱上にも小屋根をのせた高麗型で
前には『出口の柳』が植 えられ、「さらば垣」がめぐらされて今日も当時の趣を伝えており
島原の由緒を伝える地域の文化財として貴重なものです。





揚屋文化の象徴「角屋(すみや)」


島原には揚屋(アゲヤ)と置屋(オキヤ)があり、揚屋は太夫・芸妓などを一切 かかえず、置屋から太夫等を呼んで宴会を催す場でありました。
(いわゆる「お茶屋」は厨房システムを持たず、料理は「仕出し屋」へ外注。また基本的に宿泊設備もないトコロ)
即ち、今風に言えば高級料亭であったので各種接待の場でもあり、又文化人達も集うサロン的存在でもあったのです。
大広間から見える臥龍松(がりょうのまつ)を題材にした美術作品も多く残されております。
絵画では、応挙・蕪村など、当時一流の画人の作品で、特に蕪村の「紅白梅図」の大作は重要文化財に指定されています。

江戸中期の島原には、俳壇が形成されており、中でも角屋6代目・7代目の当主は蕪村・太祇らを師として俳壇の中核として活躍していました。

幕末には西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤王志士たちが軍用金調達のため、時の豪商をここへ招いて会談を行った(いわゆる接待(?))ところです。
鴨居に残された刀傷は有名ですが、
薩長連合の密談現場を発見した新撰組が斬りかかった時のものだとされていますが、
水戸天狗党出身で新撰組員であった酒癖の悪い芹沢鴨が酔っ払って刀を振り回したときのもの、という説もあります。

このように角屋は江戸時代の社交遊宴文化の場であった「揚屋文化」の余香を今に伝えています。

ここは島原開基以来、連綿と家督を維持守成してきた揚屋です。
建物は揚屋建築唯一の遺構として昭和27年、国の重要文化財に指定されました。
現在は『角屋もてなしの文化美術館』として一般公開もされています。





日本最古の置屋・「輪違屋(わちがいや)」
輪違屋は太夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、創業元禄年間(1688〜1704)といわれています。
現在の建物は安政4年(1857)に再建されたと云われますが、その後増改築されて明治4年(1871)に、ほぼ現在の姿になりました。
構造は複雑なのですが、ざっと一階南半分の居室部分と、一階北半分と二階を占める客室部分とに分けらます。

客室は全部で十数室あり、なかでも二階の「傘の間」と「紅葉の間」が主要な座敷で、その襖や壁の斬新な意匠はすばらしきものです。

これは建築物として質が高く、また古い置屋の遺構として貴重で、昭和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定されました。

一般公開はしていませんそれだけに、よりナゾの多い処であります。
玄関部分に入ったことがある人曰く、「重厚さに圧倒されてしまいました。中の客室までは見せてもらったことはありませんが柱や梁が大変太かったことを覚えています。」

いまも、 花琴太夫・春日太夫 など、数名の方々がおられるようです。

いまも行われることがある太夫道中
☆島原の遊女の最高位である「太夫」の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の遊女が女歌舞伎を催したとき、すぐれた遊女を「太夫」と呼んだことがはじまりとされています。
太夫道中は置屋から揚屋へ内八文字を踏んで練り歩く様子をいいますが、それをはじめとする太夫の所作を見るなら、 定期観光バスに島原の太夫(太夫道中、かしの式、お手前)が見られるコースがあります。
先日十数年ぶりに、「太夫餅つき」の儀が復活しました。

高麗門
こうらいもん:普通の屋根以外に、左右の控柱の上にも屋根がある門。
冠木門
かぶきもん:冠木を二柱の上方に渡した屋根のない門。
塀重門
へいじゅうもん:表門と庭との間にある塀に設けられた門。左右に方柱があって笠木はなく、扉は二枚開き。
腕木門
うでぎもん:二本の本柱を立てて冠木を差し、腕木および出し桁で屋根を支えた門。
揚屋
遊里で置屋から遊女を呼んで遊ぶ家。

(広辞苑より)

地図

夜明け前から大変雑然(?)とした中央卸売市場
その青果棟の南側、JR山陰本線丹波口駅の南東方向に「島原」はあります。

1、島原大門
2、角屋
3、輪違屋

ゴチャゴチャしたエリアと無言で歴史を物語る当地が隣り合わせ・・
この対比が実によろしい。