メールマガジン購読会員様だけにお送りする「京の隠れ名所」シリーズ第弐弾


安産守護

「そめどの地蔵」

清和天皇御誕生の寺



新京極通り側からの図

地元では「そめどのさん」と、親しまれている「安産祈願」のお地蔵さん。
京都で一番の地価(?)を誇るこのあたりにも、1000年以上の歴史がコロガッているんです。

染殿院は大同3年春(808)空海(弘法大師)の開基にして入唐帰朝の後、当院に留まり十応心論を清書調巻されたことから十住心院と称した。

むかしは、釈迦院或いは敬礼寺又は清和院釈迦堂其他釈迦堂(鎌倉期の一遍聖絵巻)とも呼ばれた。

本尊は地蔵菩薩にして高サ2m余の木彫裸形の立象にて秘仏である。

ここが安産の守護となったのは人皇55代文徳天皇(850〜858在位)の后・藤原明子(藤原忠仁公の息女)は天皇より一手にその寵愛を受けていたが、ただ一つ皇子が授からない悩みがあった。
明子が懐妊するかどうかは彼女だけでなく、父良房の地位、ひいては藤原一門の運命がかかっていた。
そんな折、四条の地蔵菩薩が子宝にご利益があることを聞きつけ、早速地蔵堂に参り17日の願をかけたところ、満願の日に明らかに懐妊の兆候があり、10月10日ののち明子は男の子を出産した。後の清和天皇である。

これが縁で宮廷において摂政関白を独占し藤原王国が築かれたのだった。明子が染殿皇后と呼ばれたのにあやかって、染殿地蔵尊と称された。

人皇62代村上天皇(946〜967在位)題3皇子一品式部郷久賀為親王は、四条中川のあたり(中川は御所より今の寺町通りに流れていた川)境域広く家造りされた。

染殿地蔵堂も自然にこの内に含まれ、御願寺となって皇子を染殿親王と申した。



66代一條院永延元年(987)に東大寺沙門「然(ちょうねん)が入宋帰朝し赤旗檀の釈迦像を伝来し嵯峨野の清涼寺に安置されたが、「然はまた自ら御丈三尺余の釈迦像一体を造り当院に奉納(金蓮寺霊宝庫に現存)これより四条京極の釈迦堂と呼ばれた。

鎌倉期の一遍聖絵巻(国宝)に
「弘安七年閏四月十六日関寺より四条京極の釈迦堂にいり給ふ。貴賎上下群をなして人はかえり見る事あたはず。車はめぐらすことをえざりき十七日ののち因幡堂にうつり給ふ。」 とある。
すなわち、一遍上人が大津関寺から入洛四条京極の釈迦堂にて念仏賦算をしたというのは、この寺のことである。

金蓮寺より釈迦堂の方が歴史も古く、一遍とのゆかりも深いのであるが、室町時代はどの寺社にも属しておらず、時の移りとともにその時代の権力者によって次から次にと護持伝来されてきたが、偶々足利義満が嘉慶二年十二月二十二日金連寺に寄進したため、本末転倒して金蓮寺の塔頭になった。


『夢窓国師が苔寺(洛西西芳寺)の作庭に没頭したとき、この地蔵尊が一旅僧となって国師を助けたという伝え』



嵯峨天竜寺開山夢窓国師が松尾に西芳精舎(苔寺)を創し、泉水の美観を好み築山の構えを営もうとしたとき、石は重く大きく少しも動かなかったが、たまたま一人の僧が忽然ととして現れ、ただ一人で自由に大石を動かし、国師の意の通り庭園を作ったので、国師は歓喜のあまり何かお礼をしようかと思案したが、幸いにその僧は袈裟を持たないのがわかったのでこれを進じようと自ら着けていた袈裟を贈った。その僧はその袈裟を受け、錫杖を地に立てたまま消え失せたのである。

後日国師が四条の辺りに托鉢し、たまたま四条京極の染殿地蔵堂に詣り、御扉を開けて拝すると、先の袈裟は地蔵菩薩の肩にかかっており手に錫杖はなかったので、疑うところもなく件の僧はこの地蔵の化身であったことを知り、国師は感激の涙を流されたということである。

その錫杖は現在も松尾の西芳寺の地蔵院に残されている。

注釈

★秘仏
平常は非公開。50年に一度御開帳があります。
★一遍聖絵
自然や庶民の生活様式描かれている。現在、歓喜光寺内藤沢清浄寺蔵。
★一遍上人
時宗の開祖。踊念仏が有名。
★金蓮寺
時宗四條派大本山。もとは四条京極あたり一帯を寺領としていたが、大正期に北区鷹峰に移転。






所在地図
場所は地図中の赤い二重マルのトコロ。
四条新京極を北へ約15mの西側
又は
四条新京極西入る甘栗の「林万昌堂」内からも

にぎやかな京都中心街にひっそりたたずむ「そめどのさん」
ここにいると、街のざわめきがウソのように思える別世界です。


もう一つのコーナー「京の名物店主・店員じゅずつなぎ」