メールマガジン購読会員様だけにお送りする「京の隠れ名所」シリーズ第一弾



(石碑から抽出した文字之図)

「かにかくに歌碑」

昭和30年、吉井 勇、谷崎潤一郎らによって建立された。歌碑に刻まれている歌は、吉井勇の作で
「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」です。
この歌は、祇園の思いを詠んだもので石川啄木らと編集を担当した「スバル」にて他の祇園を詠んだ歌とともに発表されました。

(4月中は「都をどり」で賑わう祇園周辺)

歌碑のある場所は、四条通りから大和大路を北へ白川を渡って石畳の道を東へ行った白川の辺にあります。

この白川沿いの石畳の道は昭和20年頃まではなく、お茶屋が立ち並んでいたそうです。祇園白川に「大友」あり「大友」に「お多佳さん」ありというぐらい有名なお茶屋がその中にありました。
「大友」には、夏目漱石谷崎潤一郎ら有名作家や画家が多く訪れたそうです。

明治、大正、昭和の初期まで祇園の新橋に風流な時代がありました。

なぜ、「大友にお多佳さんあり」と言われたのかは、小説好きで、俳句や書画を心得、はたまた三味線の名人だったそうです。そんな、文人たちが集まったお茶屋が石畳の道にあったのです。

この歌碑は、吉井の古希の祝いに「大友」のあった場所に谷崎潤一郎ら数名が建立したそうです。
毎年十一月八日には 「かにかくに祭」が祇園甲部お茶屋組合によっておこなわれています。


京都へお越しの折には是非、この石だたみを歩いて文人たちの粋を感じとうおくれやす。

白川の流れの音もどこか風流に聞こえるかもしれませんな。


石碑全体像之図



吉井勇之図

吉井 勇(よしい・いさむ)プロフィール
(1886〜1960)歌人
1886年鹿児島藩士吉井友実の孫として伯爵家に生まれる。
政治経済科中退。新詩社に入社。北原白秋、木下杢太郎とともに「パンの会」を結成。第一歌集は酒や女に関した「酒ほがひ」。その他「午後三時」「水荘記」「蝦蟆鉄拐」等たくさんの著書がある。
晩年は、爵位を返上し隠居、北白川周辺に住み祇園に通ったといわれている。



代表的作品から

いのち短し 恋せよおとめ
赤き唇あせぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを

いのち短し 恋せよおとめ
いざ手を取りて彼(か)の船に
いざ萌ゆる頬をきみが頬に
ここにはだれも来ぬものを

いのち短し 恋せよ少女
波に漂(ただよ)う 舟の様(よ)に
君が柔手(やわて)を 我が肩に
ここには人目も 無いものを

いのち短し 恋せよ少女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを


これも吉井勇の詩である。

「珈琲の濃きむらさきの一碗を啜りてわれら静こころなし」

かなりの珈琲通である。



また、今回御紹介のところから少々東方になりますが、浄土宗総本山・地恩院の南門前にあったのは 室戸台風被災師弟愛の銅像の下に吉井勇の詩が銅版に刻まれたものです。

「かく大き愛のすがたをいまだ見ず,この群像に涙しながる」

この詩の背景
昭和9年9月21日室戸台風は激烈を極め京都府下に於て西院(当時淳和校)初め11校の校舎が倒れ、一瞬にして先生や児童など174人の生命を奪った。
この時、親鳥が雛をかばうように挺身7人の教え子を守って倒壊した校舎の下に殉じた西院校1年担任の松浦寿恵子先生の純愛の精神と勇敢な行動、責任感に世人は深く感動し、この崇高な師弟愛の姿を永遠に記念し、併せて被災師弟慰霊のため等身大の青銅像を建立したが、祖国の非常時(太平洋戦争)に姿を消してしまった。その後、教育を愁う全国の有志の協力によって昭和45年に再建された。のが室戸台風被災師弟愛の銅像です。

それを見た吉井勇が詠んだ詩が書かれたものであるということです。
花街や色恋以外にも彼の感性を感じさせるものだと思います。


他に京に関する詩が二つ見つかりました。
「京の夜や遊びのはての寂しさをかたるがごとき宗達の幅」
「京に来ぬ 山紫水明処といへるその家の名をなつかしみつつ」




所在地図

場所は地図中の赤い二重マルのトコロ。
大和大路白川南通りから白川沿いに東へ約50m
花見小路側からでも西へ約50mの位置にあります。
最近では、祇園名物となりつつある「一銭洋食」なるものがあったりします。


もう一つのコーナー「京の名物店主・店員じゅずつなぎ」