メールマガジン購読会員様だけにお送りする「京の隠れ名所」シリーズ第十弾


耳塚

の巻



東山のふもと、三十三間堂あたりから北へ少々。
豊臣秀吉を御祭神とする豊国神社の西にあたるところに
小さな塚があります。



豊臣秀吉が「文禄慶長の役」(壬辰・丁酉の倭乱、1592〜98年)の際
朝鮮の人たちを老若男女問わず虐殺。
戦功の証に首級を持ち帰る代わりに被害 者達の鼻や耳をそぎ落とし、塩漬けにして持ち帰ってこの地に埋め、供養の儀が行われたところです。

都名所図会には
「数萬の軍兵を討取り、首を日本へわたさん事益なければ耳そぎ鼻そぎして送り此所に埋、耳塚とす」
と、あります。

京都に現存する秀吉の遺構の一つとして知られています。

五輪の石塔は、寛永20年(1643)の古絵図に、すでに描かれています。

しかし
これは日本のみならず、世界史においても歴史的汚点を物語るものなのです。

英国の「イギリス商館長日記」に
「大仏の聖堂の東門の前には、さほど目立たない大きさの円い丘があり、その頂上にはカトリック教徒の教会地境内墓地にある十字架のような石柱がひとつ立っているが、その丘は私が教えられたところによると、約二十四、五年前に太閤様が朝鮮国に侵攻したとき殺された朝鮮人の耳や鼻でできているとの由である」
と記されています。

1997年10月。『耳塚』に関するシンポジウムが開催され、以下の報告が行われました。

李一世氏
「今日の法要が、暗を明に転化するための未来への戒めとして今後も続けて行くべきだ」
貫井正之氏
「秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争について」
朴容徹氏
「壬辰戦争における朝鮮側の対応」
朝鮮大学校の琴秉洞講師
「秀吉の耳塚築造の意図とその思想的系譜」
「耳塚築造の真意は、戦勝の記念物として己の栄誉を後世にまで伝えようとしたものだ」
京都芸術短期大学の仲尾宏教授
「朝鮮通信使と耳塚の関係」
「日本は秀吉の朝鮮侵略を反省すべきであり、その反省があるか無いかで歴史認識が変わる」
作家の楠戸義昭氏
「略奪していった人、物と朝鮮文化」。
「外国への侵略の原点は秀吉にある。その意味での秀吉像の見直しが必要だ」


修学旅行でここを訪れ、この塚の歴史的意味の説明をうけた小学生(当時)曰く
「『耳塚』の説明を聞いて大きな衝撃を受けた。今後、このような悲劇が二度と繰り返されないよう願うとともに、世界の平和を愛する人間になりたい」

各方面から訪れた人々が、世界平和を願い千羽鶴などのお供えをしていかれます。
江戸時代に、朝鮮からの使節が数回にわたり地元大名の案内でここを訪れたという記録があります。
しかし、使節の人々は「供養塔」を前に、手を合わせなかったということです。
日本側がこれ見よがしに「シッカリこうやって供養してます。」というのを見せびらかし、それは『謝罪』ではないことが相手に伝わったからでしょうか?
秀吉の「見せびらかし趣味」がここにもあるのでしょうか?

忌まわしき出来事を物語る。
侵略戦争、大量殺戮・・・
この愚かさを無言で語ってくれるのです。


地図

こあたりは
「養源院」「三十三間堂」
「豊国神社」「方広寺」
などの神社仏閣が密集しています。

歴史にひたるのも、たまには良きものですな。